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この物語はフィクションです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

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山上下家は先祖代々この山で暮らしていた一族です。ヤマガミと読み、「下」の字は読みません。
そして、私が「夏に生まれた最初の子」だから、「夏一(なついち)」。解りやすくてよいでしょう。
私の家は山奥の小さな村落にありました。古くから林業を生業とする者達が数世帯寄り集まって暮らしている、ごく小さな村です。
男達は木を切り、炭を焼く。女はそれを背負って麓の村へ売りに行く。そのような人たちを取りまとめていた者が、私の父親です。
父は父親……私から見ると祖父にあたります……の残した財を元手に、より一層家を大きくしました。また、山道の整備等にも力を入れていたのだそうです。

……左腕[これ]が、やはり気になりますか。
私が4歳の頃、そう、丁度誕生日を過ぎたあたりの話です。
近所の子供達と一緒に山の中で遊んでいたら、倒れてきた木の下敷きになってしまいました。幸いにも致命的な怪我ではなかったのですが、医者に見せるのが遅れた……のだそうです。結局、町の病院で肘から下を切断する手術を受けました。
その後、秋頃に弟が生まれました。秋に生まれた2番めの子だから、「秋二(あきじ)」。こちらも解りやすいですね。
生まれたのが男の子供と聞いて、父は「秋二を次の家長にする」と決めたそうです。樵にしろ炭焼にしろ、五体満足な肉体が求められる仕事ですからね。両親ともに生まれたばかりの秋二の世話で手一杯でしたので、私の身の回りのことは、祖母がよく面倒を見てくれました。
祖母の夫……祖父ですね。私は顔を遺影でしか知りません……は樵の仕事をしていた時に脚を木に挟まれる大怪我を負いったのだそうです。祖父のように不便な身体ではあれど他人に頼り切らず自力でどうにかやれるようになりなさい、と厳しく言われましたが、優しいひとでした。私が8歳の頃に鬼籍に入りましたが、大切な思い出です。
私と秋二の下に、妹の「はる子」がいます。私とは6歳離れておりますね。生まれつき身体が弱く、病床に伏せていることの多い子でした。私のことを「上にいちゃん」と呼び、よく慕ってくれる子でした。

学生の頃は「学業優秀だが活力に欠ける」と評されておりました。
同級の子供達からは「腕と一緒に■■※註1 も取れた」と揶揄されたものです。
中学の頃、教師から進学して先生になることを勧められました。
「君は頭がよく思慮深い性格だから向いているだろう。なにより教師というのは給金がいい。」
その薦めにしたがって、山から若干離れた街の高等学校へ進学することにしました。父も快諾しましたが、今思えば私という厄介なものを家から遠ざけたかったのかも知れません。
身体のこともあるので、医者の家に下宿を借りました。医者先生とその奥様も良くしてくださいましたし、暇のある時に簡単な傷の手当などを教えてもらうこともありました。
卒業後は、有り難いことに麓の村の小学校に教師として採用されました。生家から通うことのできる距離でしたので、下宿を引き払い実家へ戻ることとしました。

※註1 ■■地方の方言。男性器を意味する幼児語。

私が家を離れているあいだに、正式に秋二が跡を継ぐということになっておりました。
ご覧の通りの、生木のような痩躯の私、それと対照的に大柄でよく日に焼けた顔の秋二、並べばどちらが兄かわからないほどです。
自分のせいではないとはいえ、本来は私が負うべき役割を弟に押し付けてしまったことについてを申し訳なく思っておりました。
弟は「自分が家財を継げるのはむしろ幸運だ、兄さんはおれに任せて気楽にやってくれ」と冗談めかして明るく振る舞っておりましたね。
その秋二ですが、18歳になって直ぐに嫁をもらいました。お相手は照子さんと言いまして、すぐ近くの家に暮らしていた、気立ての良い働き者の娘です。私も良く知っておりました。
……ええ、良く知っております。あの娘が、私のことを好いていたことも。それは私も同じこと。淡い恋心がまるで無かったと言えば嘘になります。

懺悔をさせてください。

遡ること3年前の、祭りの日のことです。
神社の裏手に引き込まれ、「義手[これ]を外した所を見たい。」と頼まれたのです。
これは固定が大変なので気軽に取り外せるものではない、と一度は断りました。
それでなくとも灰褐色の腕は元来奇異の目に晒されがちなものですので、袖で隠すことが多かったのですが。
あの娘の顔を見て、これはある種の方便だ、と勘付いたのです。
いけません、年頃の娘がそのような。言いかけて、止めました。
後にも先にも、家族と医者以外に左腕を見せたのはこれだけです。
これを見てどう思ったかは教えてくれませんでしたが、それで私への想いが変わることは無かったようです。あの娘は私の腕を引いて、抱き寄せてきました。私も、それに応えるように右腕を差し伸べ――

今でもよく思い出せます。日が沈んでも暑さの残る日でした。
お囃子の音色が、遠くに響いておりました。地響きに似た太鼓の音、笛の音、あの娘の声。祭りの夜に結ばれる、それそのものは珍しいことではありません。
それでも、あの娘の結婚相手は「家を継ぐ男」でなければならない。
私ではいけません。
過ちといえばそうです。
いくら夏と祭りの熱に浮かされていたから、あの娘に誘われたから、後からそうなると知らなかった、といっても。数年後に弟の伴侶となる娘に手を出したことになります。
……幸か不幸か、その時は子を成すことはありませんでした。お互いの胸の内に収めておけば済む話。
若き日の、過ちです。

話を戻しましょう。
弟たちの婚姻からしばらくして、冬に差し掛かろうという頃。
妹は肺炎を拗らせ、夜中酷い咳が続いて……目を覚ましませんでした。長年病床に伏せていたために、結婚式にも参列できないほど弱っておりました。病気に打ち克つだけの体力がもう残っていなかったのです。
私はただ、傍にいることしか出来ませんでした。
そしてその翌年、早春の頃です。今度は私の母と父が、雪の残る山路で足を滑らせて、谷に落ち……そのまま、帰りませんでした。
これで、家には私と弟夫婦だけになりました。

「前から病気だった娘は仕方がないが、これだけ不幸が続くのだからお祓いをしたほうがよい」と長老に勧められるがまま、秋二は祈祷師[カミサマ]を呼びました。
数日の後、見慣れない顔の二人組が家を訪ねてきました。どうやら彼等が祈祷師なのだそうです。てっきり仙人のような、浮世離れした風貌なのだろうかと想像しておりましたが、実際の所は私達と然程変わらない、派手な装束の他はごく普通の人間にも見えました。
しかし、男とも女とも付かない風貌の、子供のように小柄で、それでいて老木のように泰然とした……得体のしれない方でしたね。その方がお経のようなものを詠んでいる間、もうひとりの祈祷師が我々に様々な話を聞いてきました。曰く、原因を探り絶たねば根本的な解決にはならない、と。そちらは白髪の男で、年寄りのようにも見えたのですが声の調子は若く、私と然程変わらない年頃のようでした。
いずれにしろ彼等には何もかもを正直に話さねばならない、そう感じさせる雰囲気がありました。
私のこと、弟のこと。家のこと。話せる限りのことを伝えると、祈祷師の方はなんとも言い難い顔でため息をつき、
「随分とまあ、ねじれあがった縁が組み上がっているようで。」
と仰いました。
不幸続きは霊障によるものだろうが、それを招き入れたのは人の感情。捻じれをうまく解かないと、よりひどいことになるであろう……とのことでしたね。
私も含め、誰一人その意味をうまく理解できていないようでしたが、
「ひとまず、よく話をすることです。相互理解できずとも。」
そう言い残して、御札のようなものを貼り、去っていきました。

祈祷師の言う通り、対話が少なかったのかも知れません。一度きちんとお互いの考えを話し合おうと持ちかけましたが、曖昧に躱されて、結局最期まできちんと話をすることはありませんでした。

秋二はよく働き、表向きこそ私にも優しく接しておりました。しかし、内心では私を厄介なものだと感じ、同時に優越心を抱いていたようです。長男と次男の関係が逆転していた、というのも一因だったのでしょう。「家」の制度は先の大戦のあとに解消された筈なのですが、この辺りには未だそれらしい意識が残っているのです。
「兄は■■※註2 のせいで家も仕事も継ぐこともできず、かわいそうだ。かわいそうだから、仕方なく家に置いてあげているのだ。」……という、村の人との会話が耳に入ったこともあります。
私は、自分を可哀想だと思ったことはありませんが。弟達の目から見ればそうなのでしょう。

※註2:■■地方の方言で隻腕を意味する単語だが、現代では差別用語とされている


弟は、父の仕事を引き継いで村の政[まつりごと]にも関わりを持つようになっていました。麓の村と山上下の村、それぞれ数軒ずつの家長が集まる寄合に参加することも増えていました。
麓の村の、神社の境内が寄合の場となっておりましたので、そこでの話し合いがある日には日が暮れてから戻ってくることもありました。
その日も、随分と遅くなってから戻ってきたようです。私が先に休んでおりますと、玄関口のほうから弟夫婦の会話が聞こえてきました。
「麓の村のやつらは、上の村の連中を見下しているような気がする。そうに違いない。あいつらは小洒落た服や煙草などを、これ見よがしと持ち込んでくる。」
「まあまあ、考えすぎですよ」
「ところで、自分が留守の間は何もなかったな」
「なにもありませんよ。」
「本当にか」
「ええ。裏のばあさまが山菜を持ってきたほかには、なにも。明日のお味噌汁に入れて食べましょう」
「本当にそれだけか」

そのうち、どういうわけか、妻と私との不義密通を疑うようになったのです。理屈はわからなくもありません。家にはほかに誰もおりませんでしたから。
以前も、以前、それが切掛で妻に手を上げたことがあります。その時は家の裏手に住む老婦が騒ぎを聞きつけ、『一緒に留守番をする』ことを申し出たのでそれ以降は何も言わなくなりました。

弟も、阿呆ではありません。娶った妻が生娘ではないことぐらい直ぐに察しがついたでしょう。
それ自体は大して珍しいことでもありませんし、そういったことは、かえって弟のほうが私より手馴れている筈ですので……。
しかし、その相手が『誰』であるかは秘めておりました。ええ、その方がよいのです。
しかし、妻となった女が自分ではなく兄の方に惚れていたことも、おそらく感づいていたのかもしれません。

ある日、二人揃って家を留守にしていました。町の医者まで行ったとのことですが、帰ってきたのは2,3日経った後でした。
弟は第一声にこう述べました。
「跡継ぎができた。」
誰もがそれを喜んでいるようでしたが、弟は時折「あれは本当に自分の子供なのか」と独り言を呟くようになったのです。あるいは、私に聞かせるように。
誓って申し上げます。あの夏以来、あとにも先にも、関係を持ったことは一度もございません。

そして、つい数時間ほど前のこと。
二人の言い争う声、何か大きなものが倒れる音、そして、しばらくの後静かになりました。
居間へ向かうと、弟が呆然と座っているのと、頭から血を流して倒れている照子さんとが目に入りました。

「言い争いになり、軽く突き飛ばしたつもりだった。そのまま動かなくなってしまった。これは事故だ。なんとかしてくれ。」
弟の言い分を要約すると、こうでした。
事故だったとして、気が動転していたして、もう少し物の言い方というものがありましょう。
それを眉一つ動かさずに聞き届け、口を開きました。私自身、驚くほど平坦な声で、弟に告げました。
「私がなんとかしますから、落ち着いて。もう夜も遅い。きみは先に休んでいてください。」

弟は一瞬戸惑ったようでしたが、
「じゃあ、頼んだよ。兄さん。」
そう言い残して、寝室へと姿を消しました。あれは普段は自分が長として振る舞っていますが、都合の悪くなると私のことを「兄さん」と呼びます。昔からの癖でしたね。

「私がなんとかしますから。」
この一言でこの場から追い出したのは正しかったのでしょうか。そのときには、私も具体的にどのようにするか考えが至りませんでしたので。
「ごめんなさい。貴女がこうなってしまったのには、私にも責がある。」
倒れた時に乱れたであろう服を整え、見開いた目を閉じ、幼い頃に祖母から聞かされたお経を思い出しながら唱えます。正しいかどうかもわからない経文でも、弔いになるのでしょうか。
それでも、いつまでも此処に寝かせておくわけにはいきません。せめて仏間に。
しかし、その躰は思ったよりも重く、私一人の力では運ぶこともかないませんでした。せめてもう一人、男手が要ります。
寝室は、随分と静かでした。部屋の戸を音を立てないように少しだけ開くと、部屋の中心に2組並べて敷かれた布団の片方。布団を被っていても、中にいるであろう人物の体が震えているのが解ります。
それが視界に入った時に、頭の中でなにかがぱちりと音を立てました。

「私がなんとかしますから。」
それは文字通り「私が」始末をつける、ということ。あれには罪の意識があったのでしょうか。
腐った木は根本から絶たなければならない。そうでしょう?
『木を腐らせる病気があり、その木は内側から枯れて葉を落とし、立ち枯れの状態になる。死んだ木は質が悪く、使い物にならない。さらに、菌は落ち葉を伝ってほかの木へと感染を広げていく。病変を食い止めるには、落ち葉を始末して病木をすべて切り倒し、そして焼却するしかない』。かつて、父がそのような事を言っていました。

それからの事は、うまく思い出せません。なにしろ、夢中でしたので。
納屋へ向かったような気がします。
ええ、最早あれは私の知る『弟』などではなく。ただの獣です。それに大鉈を振り下ろしたこと。
血に染まった着物のまま、大きな油壷を引きずり歩いたことは覚えています。
家の至る所、弟だったもの、それらを油浸しにしました。行灯には僅かに火が残っておりましたのでそれを薙ぎ倒し、残っていた燐寸に火を点け、油の中に放り込む。
しばらくすると炎はたちまちに広がって、目の前のなにもかもが、炎に消えていきました。
私も、疲れてしまいました。
炎を見ていても悲しみや怒りはなく、そのかわりに思い浮かんだのは今までの記憶でした。
走馬灯、というものでしょうか。炎を見ていると、今までの記憶が思い浮かびました。
幼い頃の思い出、家族のこと、学生時代のこと、夏祭りの日。

……聞いてくれて、ありがとうございます。
あの時の祈祷師[カミサマ]達ですね。ええ、話しているうちに思い出しました。
どうして此処に……それよりも、早く逃げた方が。貴方達まで火にまかれてしまいます。
それとも……貴方達も走馬灯の一部、私の妄想でしょうか。妄想に過去のことをお話するなんて滑稽なことですね。

何処で道を違えたのか。私には最早判りません。

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附記

■■■■■町は、県南東の山間部に位置する集落である。合併により現在は■■■■■となっている。
谷に沿った細長い平地に民家と田畑が広がっている光景には「のどかな田舎」そのものの趣がある。かつてはこの地域一帯で林業や炭焼きが盛んだったが、林業の衰退や作業者の高齢化と後継者不足などの複合的な要因によって、山の手入れが行き届いているとは言い難いのが現状である。
十数年前までは整備されていた道も荒廃が進み、山中の林道は法面崩落の危険から車両通行止めとなっている箇所が複数存在する。
そのような道なき道のさらに奥に、「地図から消えた村」がある。
と言っても、存在そのものが怪しまれる都市伝説めいたものではない。かつては住人がいたし、名主と呼ばれる家もあった。しかし、ある時災害によって壊滅的な被害を受けた。

市史を紐解くと、このような記述がある。
(引用ここから)
9.廃止された行政区画
(中略)
9-10.山上下(ヤマガミ)村
山麓にあった集落。19■■年(明治年)、周辺村が合併して■■■村の一部となっているが、住民からは慣例的に「村」をつけて呼ばれていた。
19■■年(昭和年)8月に発生した大規模な土砂崩れで山上下村に繋がる道路が寸断される。
二次災害の危険性からすぐに救助に向かうことができず、通行できるようになったのは三日後であった。
集落だった場所は土砂に埋もれて、かろうじて家の屋根や高い木だけが顔を出しているというありさまだった。
「集落にいた住人全員が土砂に埋まって死亡した」「土砂から遺体を掘り起こすことは極めて困難」と判断され、廃村となる。当時山上下村から離れていた住民の遺族・親類もこれを了承した。
19■■年(昭和年)、集落跡の入口に慰霊碑が建てられた。

事故から数十年経過した19■■年現在、集落跡には草木が生い茂り、痕跡として村人達の墓標である慰霊碑を残すのみとなっている。その慰霊碑も、先述の車両通行止め区間からさらに山奥へ徒歩で分け入る必要があるため近づくのは容易ではない。
199年(平成年)に最後の遺族が亡くなり、最早「山上下村」は歴史の中に名を残すのみとなった。
(引用ここまで)

昭和5*年頃、町史編纂の際に行われた聞き取り調査の記録の中に山上下村についての証言があった。
■■■町在住の老婦人が、「事故当時はまだ子供だったので詳しくはわからない」と前置きをした上で
「土砂崩れの直前に火事があった、と父親(消防団員)から聞いた」
「村中が激しく燃えていて、土砂崩れがなくてもあの様子ではみんな死んでいただろう、と言っていた」

という趣旨の発言だが「記録として曖昧である」という理由から町史には記載されていない。

これがあの夏にあの村でおこったことの全てです。
……というのは真っ赤な嘘で、実際の所動画と曲で語られているのは夏一さんの主観視点なので「全て」というわけでもないんですね。「村が焼けたあとにどうなったか」と「公的な記録」はここが初出です。キルカウント=「村」の人口ということでひとつ。

というわけで、アングラコンピの曲コメとして送るはずだったがあまりにも長すぎたので封印されたものがこちらになります。
夏一さんの独白の体裁で描かれる走馬灯と、市史です。
追記:市町村の区分が混在していてややこしいので解説することに……
■■■■■村山上下集落→土砂崩れで住民がほぼ全員死亡
■■■■■町→昭和5*年頃に「町史」が編纂される
■■■■■→周辺町村が合併してできた。「○○郡△△町」が「□□市△△」に置き換わり、「大字」以下の部分は変わりません。 合併前の町史をもとにした増補版「市史」が編纂される
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